映画「堀川中立売」を見てきました。
(以下、映画の内容を含みます)
後藤ひろひと作・演出の「Shuffle」を観ました。
今回観たのはWOWOW放映分の録画です。
あまりの普通さに驚きました。
決して凡庸な舞台というわけではありません。
役者さんの演技は色彩豊かですしキャラクターは変わり者だらけ、話の展開にも仕掛けがあり退屈しません。
ですが、これまで後藤ひろひと作品を観ると、必ずどこかに感じた「釈然としなさ」がないのです。
これまで観た作品群では、
「一見ハッピーエンドだけど、よく見ればあのひともあのひとも犠牲になったのに何も変わらず、主人公は当初の不幸な境遇のまま?」とか
「あの人物は伏線でもなんでもなく、ただそこにいたひとなの?投げっぱなし?」とか
「あそこでああいう事件さえ起きていなければ、まだ合理的な解釈の余地が残るおはなしになるのに……これだと、超常現象を認めない限り説明がつかないおはなしになってしまう」とか、なにかしら納得のいかない点が残るのが常だったのです。
そうしてその引っ掛かりが、私にとって後藤ひろひと作品を「他とは違う、普通でないもの」と認識させていました。
「Shuffle」にはそれがありませんでした。
いえ、あるにはあったのですが、これまでとは違う感想を持ちました。
達成しないまま忘れられた目的、登場人物に神の視点がなければ説明のつかない行動、そういうものは今回もありました。
だけれどそれがひどく引っかかって物語に集中できなくなる、ということがありませんでした。
ともすればそれらを見逃しそうになっていたくらいで、観終わってからすこし考えるまでそれらの矛盾点に気付きませんでした。
この作品は2005年のもの、私がこれまでに観た後藤ひろひと作品の中で一番新しい作品です。
この方はどういう過程を経てここに辿り着いたのだろうと思います。
古典的な物語を踏まえてからあえて観客に引っかかりを残す作品づくりに移り、そこからまた楽しく消費しやすい作品づくりに回帰したのでしょうか。
はたまた元々この「釈然としなさ」は意図したものではなくて、作り手の進化とともにそれから脱却しつつあるのでしょうか。
単純に、細かいことが気にかからなくなるくらいに観客を熱中させる力がある舞台だったと受け止めるべきなのでしょうか。
なんにせよ、楽しめてしまいました。
役者さんの演技を、奇妙な設定を、まとまりよく繋がる展開を。
私がこれまでに観た後藤ひろひと作品の中で一番すっきりと楽しめた作品でした。
荒い言葉遣いを辞さずに言えば、「普通に面白い」作品でした。
そしてそれが作り手の意に沿う感想なのかどうか、量りかねています。
ひとからお勧めいただいた「夜な夜な夜な」という曲、およびその非公式PVがとても気に入りました。
人間風車(2000年版)のDVDを観ました。
身近に後藤ひろひと好きの方がおられまして、「ダブリンの鐘つきカビ人間」「姫が愛したダニ小僧」「SPOOKY HOUSE」「発熱!猿人ショー」と、あれこれDVDを借りて鑑賞させていただいています。
概ね夢も希望もない脚本を書かれる方だと認識しています。
笑いはあちこちにありますし、悲劇ばかりというわけでもありません。
それでも、底流になにかひどく乾いたものがあるような印象を受けます。
初めてこれらの作品を観たときには書き手の精神状態が心配になりました。
その後何作か観てみて「そうか、長年にわたってずっとこの方はこうなのだ、なれば致し方ない」と納得しました。
人間風車はとりわけ救われないおはなしでした。
致し方ありません。
このひとの舞台は、笑えるのに楽しくありません。
どうも、幕が下りたときに幸せな気分にはなりません。
だけれど絶望的な気分になるというわけでもありません。
物語に救いはなく、世界観には夢も希望もないと感じたときに、それにどう対応するか考えます。
提示された世界観を否定できるだけの救いや夢や希望は身の回りにあるだろうか、と考えます。
提示されたひとつの世界観をどう消費するか試されているように感じます。
「ただ、君を愛してる」(新城毅彦)
脚本担当の方はあまり写真という表現に思い入れがないのかなあ、と思いました。
それに比して映される写真には撮り手の誠実な目線が感じられ、なにかこうちぐはぐな感じが。
ふたりで並んで写真を撮る、という場面を見て違和感を覚えました。
世界を切り取るときはいつだってひとりです。
その作業を誰かと並んで行うというのは、どういう気分のものなのでしょう。
誰かが一緒にいることで書けなくなるものはあります。
誰かが一緒にいないと書けないものもあるでしょうか。
あるとすれば、それは。
今、私の横には誰もいません。
11月24日、地下教室の壁を利用した上映会で、ぼろぼろのソファに深く座って「ジョゼと虎と魚たち」を観ました。
はじめから終わりまで観ていた観客は私一人。
まっくらな海の底にいた。
何も見えないから、そこがさびしいのかどうかもわからなかった。
あなたに出会ってしまったから、もうあそこには戻れない。
あなたがいなくなったら、私は深い海の底をひとりでころころと貝殻のように転がることになるのだろう。
それもまた、よし。
そういう台詞がありました。
それだけ好かれて、なにもかも預けられて、それを全部背負っていくのは難し過ぎることなので、そこにいたひとは逃げ出していなくなってしまって。
それでも、ひとりになっても、生きてはいけます。
背負ってくれるひとがいなくなっても、強さがあれば努力をすれば外に出ることはできます。
ひとりでどこにでも行かれるようになるのはよいことなのだと思いました。
ひとりでどこにでも行かれるようにならなければならないのだと思いました。
それが楽しいことばかりでなくとも。
真っ暗な会場から出ると外は既に夕闇、月が晧々と光っていました。
昨日、一昨日放送の「ガンジス河でバタフライ」を観ました。
宮藤官九郎脚本、長澤まさみ主演。
「自分探しの旅」のおはなしでした。
自分探しという言葉を胡散臭く思い、なるたけ遠ざけるようにしていました。
自分を見失ったときに旅に出るのは逃げでしかないと、そのようなことをせずにそのときおかれた状況と相対しながらおとなしく内省してみるのが誠実で賢明な態度なのだと思っていました。
だけれどこの作品を見て、旅に出ることで見えるものもあるのだと思いました。
旅に出ないと見えないものではないかもしれないけれど。
私はああいう旅行をするには老成しすぎたように思います。
まだ間に合うようにも思います。
自分はどこにも行かれないと思っていました。
自分はどこにでも行けるような気がしておそろしくなります。
自由というのは、私と世界を繋ぐものの存在をしっかりと確認することが出来ない状態です。
繋ぎとめてくれるものがないというのはひどく不安なことで。
どこかに行ってみようかなあと思いました。
どこにも行くまいとも思いました。
いずれにしてもインドはやめておこうと思いました。
書籍版の『かもめ食堂』を読みました。
映画のほうが入りやすい、という印象を受けました。
書籍では登場人物に理由があって、それなりの経過を経て、かもめ食堂に辿り着きます。
映画では、気づいたらそこにいたのだという風情でかもめ食堂にひとがいます。
映画と書籍が補完しあう関係になっているという意味では、この差異は正しいものだと思います。媒体によって適した描き方はそれぞれ異なります。
私の感覚に沿うのは、映画の描き方のほうでした。
いつだって、気づいたらそこにいるのです。
そこに至るまでの過程も、なにがしかの意思も、なかったわけではありません。
それでもそこに辿り着いたときに、それまでの過程はさして自分を支えてくれるものではないのです。
いろいろなところで、自分がここにいるということに呆然とした経験を思い出します。
夢中になっているうちに、必死になっているうちに、気づいたらいつのまにかそこにいたのです。
誰に命じられたわけでもなく、自分の意思かどうかもよくわからず。
ああ、私はここにいる。
どうしよう。