映画「堀川中立売」を見てきました。
(以下、映画の内容を含みます)
ラスト、寺田という人物が関西弁で話すシーンに、大層心を掴まれました。
少年の頃に福岡で殺人事件を起こして、刑期を終えて京都に移り住んできた、という経緯のあるキャラクターです。
そこまでのシーンでそのひとが発する言葉は、訥々とした敬語か、そうでなければ感情の爆発に任せた怒鳴り声、という印象でした。
それが、最後の最後に、ひどく暖かい声で、土地の言葉で話すのを聞いて。
ああ、このひとの中にも周りからの言葉は蓄積されていたのだ、それが発されていなかっただけなのだ、と感じて、なんだか、泣きたいような気持ちになりました。
そう思うのは、きっと私が元々この土地の人間でなく、だけれどもう20年ほど関西に住んでいて、おそらく頭の中にこの土地の言葉の辞書はほぼ完璧に構成されているにも関わらず、関西の言葉で話すことができない人間だからなのでしょう。
なにか、どこか、幼いころに自ら閉じた部分があって、そうしてそこを未だに閉ざしたままでいるのです。
別段、それで不具合はないのでしょうが。
それでも、架空のおはなしであっても、その部分に触れてくる物語を見たときに、気持ちを動かされずにはいられなかったのです。
なお、上のような部分が映画の本筋なのかというと、多分違います。
ではどういうおはなしなのかというと、なんというか、式神であるあられもない格好の男の方たちが、おかしな茸を食べてふらふらになったりしながら、化け物になってしまったひとたちの頭をむしって回るおはなし、なのではないかと思います。
どういうことなのかよくわからないかもしれませんが、私もうまくご説明できません。すみません。
実際にごらんになられるのが早いかと思います。
現在、京都シネマ、シネマート心斎橋で公開中です。
よく知っている街が映っている、と、思いました。
名所旧跡を扱った京都の映像とは違う、でも多分、知っている景色。
酔って夜の京都の街を、ふらふら歩いてみたことのある方なら、見たことがある景色なのではないかと思います。
架空のおはなしですが、大妖怪とかが出てくる京都ギャラクシーウォーズですが、それでもきっと、あの景色のどれかは、誰にでも、誰の中にでも。