レイトン教授と不思議な町が面白いです。
特殊な知識を要するというものではなく、考えれば解けるように問題が調整されており、ヒントもよい具合に用意されているので、解いていくのが爽快です。
DS、ゲームという媒体の特性を活かし、ナゾナゾ本では出せないような問題の楽しみ方を提示しています。
解きながら、『頭の体操』を思い出すなあと思っていたら、多湖輝が監督していました。
どうりで。
レイトン教授と不思議な町が面白いです。
特殊な知識を要するというものではなく、考えれば解けるように問題が調整されており、ヒントもよい具合に用意されているので、解いていくのが爽快です。
DS、ゲームという媒体の特性を活かし、ナゾナゾ本では出せないような問題の楽しみ方を提示しています。
解きながら、『頭の体操』を思い出すなあと思っていたら、多湖輝が監督していました。
どうりで。
昔話を。
脳を壊して治療を受けていたことがありました。
生死の境で意識が混濁していた私は、父にこのように頼んだそうです。
「味の素をください、グルタミン酸ナトリウム」
それを聞いた父は、もう駄目かと思ったそうです。
その後周囲の方のご尽力で、どうにか一命は取り留めました。
頭は随分悪くなってしまいましたし、色々なことも忘れてしまいましたが。
しばらく失っていた視力も今ではすっかり回復し、生活に支障のない程度に健康です。
回復した後その話を聞かされて、ああ私も面白い譫言を言っていたのだなあとすこし笑って忘れていました。
今になって考えてみれば。
神経伝達物質としてのグルタミン酸は、記憶に不可欠な物質です。
いろいろなものを忘れていく最中にあった私は、混乱と幼い発想で
「とりあえずグルタミン酸を摂れば事態が改善するかも」
と考えたのかもしれません。
笑い話のようですが、当人としてはいたって本気で。
私はあのとき、自分が何を失っていくのかを認識していました。
それでも生き延びようとしました。
あの時点で将来に抱ける希望はなにひとつありませんでした。
自分はひどい状態で、失ったものは決して少なくなく、生き延びればこれからもっとひどい場所に立ち続けなければならなくなるのだと知っていました。
だけれど、それでも。
絶望はひとを殺しません。
私はまだ生きています。
あのときそれを選択したことを、忘れるべきではないのだと思います。
USBメモリの書き換え限界寿命が来ると何が起きるのか、実際に寿命が来たケースをレポート(GIGAZINE)
USBメモリの寿命は意外と短く、壊れる確率も決して低くはないようです。
サブマシンとしてノートPCを導入したので、色々なソフトをUSBメモリから起動できるようにしてデスクトップと環境を共有できるようにしようかなあと考えていたのですが、この記事を読んだ後では躊躇われます。
頻繁に書き換えを行う環境では寿命も短くなるようですし。
バックアップをまめに取ればよいのでしょうが、それをやるならはじめから両方のマシンにそれぞれの環境を構築してデータをちょこちょこ移行させても手間はあまり変わらないかもしれません。
思い出せなくなったことがらを、送信済みメールやチャットの履歴から探し出すことがたまにあるもので、それらが飛んでしまう可能性があるというのはとても困ります。
データがなくなってしまったら二度と見つけ出せないものがある気がします。
どうすれば失わずにいられるのでしょう。
私の記憶はどうも頼りなく、その上に日々を積み重ねていくのがどうにも心細いのです。
せめて記録せずにはいられません、保存せずにはいられません。
忘れてしまうようならそれは重要なことではないと、割り切ることができません。
何も失くさないことなど不可能とわかっていても、喪失を受け容れることができません。
昨日と一昨日は夜っぴてゲーム「赤ちゃんはどこからくるの?」で遊んでいました。
(公式サイト、音楽注意)
いまさらの感はぬぐえませんが、感想。
とても面白かったです。
音楽も映像も好みでしたし、随所に笑いやお遊びを散りばめながら完成度の高いものを、というつくりはセガならではという気がします。
初回のストーリーモードは難易度もちょうどよく、アクションが苦手な私にもクリアできました。
随所雰囲気が色っぽいのもポイントだと思います。全年齢対応なのが不思議なくらい。カノジョといちゃいちゃするのが無闇に楽しいです。「コイツー」の仕草など、見ていてつい口元が緩んでしまいました。
なにより、DSでしかできない面白いことを積極的にやってみようという姿勢がとても好ましく感じられました。
今ならお手ごろ価格で手に入るのではと思います。
見かけたらぜひどうぞ。おすすめです。
あ、肺活量に自信のない方はちいさな扇風機を用意して挑むと助かる場面があるかもしれません。 裏技。
好ましくない状況が発生したときはその状況を引き起こしているものの構造を観察して、最も脆い箇所に触れることで概ねの問題は崩れます。
ひとが絡む問題ならば、最も大きく状況を動かす力をもったひとを動かすことで早い時点で容易に問題を解決できます。
十代になる随分前に学習して実践してきた、まったくあたりまえの事柄です。
なのにそれを実行し損ねてしまいました。
ひとつ抱えていた問題がありました。
些事だから、とりたてて問題にすることでもないからと好ましくない状況を放置し、1年以上の時間を経過させてしまいました。
一昨日関係部署に働きかけ、昨日解決させました。
1年前に然るべき対応を取っていれば、このように気持ちにひっかかりを感じたまま徒に時間を過ごすことも、ここまでことを大きくせずに穏便に状況を変えることもできた気がします。
甘くなっています。
何年か前ならばできていた判断が、対応が、できなくなっています。
それは悪いことばかりではないのかもしれないのですが。
それでも、常に状況に対する最適解を探す努力を怠るべきではありません。
どうあっても周囲の世界と関わらずに生きていくことはできないのですから、せめて心地よい接し方ができますように。
就寝の2時間前にはPCを落とすようにすると、眠る直前までPCを使っていたときに比べて寝覚めがよい気がします。
眠る前に活字を読むことと軽い運動をすることは問題ないようです。
なんとなく、ここ数日の生活を省みて。
「――は『なくしてしまった』『忘れてしまった』という妄想に憑かれているだけ、ということはないの?本当ははじめから何も失ってなどいないという可能性は?」
一ヶ月前の感情を思い出せなくなっていることに気づきました。
別段驚くようなことではありません。
私はそのようにできています。
記憶を保持する機能の傷は自覚しないままきっちりと作用していて、ともすれば色々なことを忘れてしまって、忘れることに慣れてしまって、覚えていない話題でも適当に辻褄を合わせて話すことができるようになってしまって。
また、いつものようにいつもどおりのことが起きています。
過去は自分と繋がっておらずぼろぼろと崩れ落ちるばかりで、未来は茫洋として姿が見えません。
確かな時間は今この時だけ、大切なのは目の前にあるものだけ、それ以上のものを持つことができません。
それが悲しいことなのか幸せなことなのかわかりません。
もはや私にはこれ以外のありかたを想像することができません。
ただ、忘れてはいけないことがあったような気がします。
あのとき私はなにか苦しんでいて、それは重要で必要な痛みで、その原因となったものと向き合うことできっとなにかが変わるのだと思っていたような気がします。
だけれどそれがどのような思考であったのか、辿る記憶は巧く形を成さず雲を?むよう。
忘れてはいけないことがあった、ただそれだけを覚えています。
それが何であったのかはもうわからなくなってしまいました。
そうしてそれで別に困らず、日々は概ね楽しく過ぎていきます。
思考を占めていたものを失くしてしまった今は視界が以前よりも開けていて、星はきれいで食べ物は美味しくて世界は楽しみに満ちていて。
それらを愛でることに手一杯で、記憶を辿ることにまで手が回りません。
確かに何か、忘れるべきでない大切なものがあったのに。
あのときの私はしっかりとそれを見据えていたのに。
とはいえ現在を楽しむことに注力するのは正しいありかたです。
常に過去より現在こそが優先して処理されるべきです。
だから今は目の前にあるよいものを充分に大切にしたいと思います。
それがいずれ忘れられてしまう時間であっても。