今いる部屋はほとんど完璧に居心地のよい状態になっていると自負していますのに、もしくはので、遠くに行きたくて仕方がありません。
今いる部屋はほとんど完璧に居心地のよい状態になっていると自負していますのに、もしくはので、遠くに行きたくて仕方がありません。
シャンプーとコンディショナーがなくなったので、母が買い物に行き、詰め替え用のコンディショナーと詰め替え用のコンディショナーを購入してきて、コンディショナーのボトルにコンディショナーを、シャンプーのボトルにもコンディショナーを詰め、これがこの年代にならないと許されない「大人かわいいうっかり」だと主張されたので、納得せざるをえませんでした。
自動車運転の練習をしようと思い、母に同乗を頼んだところ、年明けまで待って欲しいとの返事をもらい、待っている間に母がどんどん身辺整理を始め、なんだか部屋ががらんとしてきてしまったのですが、そろそろ謝った方がよいのでしょうか。
祖父に尋ねられました。
「カルボナーラ(carbonara)の語源は、炭素(carbon)ですか?」
即答できず、自分の不甲斐ない孫ぶりをひとしきり噛み締めました。
グアムに行っていたときのことです。
英語圏にいると、数日で思考も英語になります。
が、私にはあまりたくさん、英語の語彙がありません。
使えるのは単純な単語だけで、複雑な言葉はよくわかりません。
するとどうなるか。
向こうにいる間は、簡単なことしか考えていませんでした。
きれいだなあ、おいしいなあ、次はどこに行こうかしら。
思考が言葉のほうに合わせて、すとんと単純化されました。
それは確かに不便なことであったはずなのですが、楽しかった記憶しか残っていません。
日本に戻ってくると、一晩で言葉も思考も元に戻りました。
あのときの思考のありかたは、世界の見え方は、あきらかに今とは違うものでした。
だけれど、決して悪いものではありませんでした。
目にするものはきれいで、口にするものはおいしくて、出会ったひとには笑いかけて。
今にして、思います。
あのときの私は、すこぶる無能であったけれど、幸福を得る力はとても強く持っていたのではないか、と。
そうしてそれは、賢くないがゆえの特権だったのであろうなあ、とも。
以前、近所のおじいさまが庭先であれこれの大工道具を出してなにやら作業しておられるのを見ました。
日曜大工でしょうか、何をお作りになられるのでしょうか、などと思いつつ、通り過ぎてしまいました。
しばらくして、庭先に小粋な離れが完成していました。
髪を切りました。
今年の5月に鋏を入れて、ずいぶん量を減らしたとはいえ、それでも背中を覆う程度はあった髪。
今度は肩につくかつかないかの短髪にしてみました。
上着を忘れても、髪を全部下ろせば上半身程度は覆えてしまえたり、
寒い日には天然の首巻きを使えたり、
だけれどちょっと見た目が怖くて周りの方に止められたり、
ちょっとした衣類のほつれ程度なら髪を糸代わりに使って修繕できたり、
眠るときには絡まらないよう、枕元に箱を置いて髪を入れておいてみたり、
抜けた髪に存在感がありすぎて、うっかりどこかに付着させようものなら、なんだか呪いの品のようだとおびえられたり、
そういうことは、もう、ありません。
変化の度合いは前回切ったときの比ではないのですが、前に鋏を入れたときほど、気持ちが揺れていません。
今回の美容師さんが、私の意思を何度も確認し、切ったらどのような形になるかを丁寧に説明した上で、新しい髪型を作ってくださったのがよかったのかもしれません。
切ってしまったとはいえ、私にとって長く伸ばした髪はそれなりに愛着のあるものでした。
それを大事にして下さる方に扱っていただけたのは、よいことでした。
ばっさりと短くしてしまうと、なにかかえってさっぱりとしました。
失ったのではなく、ただ変わったのだと思えました。
短い髪は、私に似合っている気がします。
首を傾げると、これまでにあった髪の揺れる感触がもうなくて。
その軽さに、まだすこし戸惑っています。
3月に、お仕事を変えました。
その仕事場は、おられる方も親切で、魅力的で、とても素敵な場所でした。
文章を書くのが好きだ、とお話ししたところ、多くの方が読む場所にものを書く機会をいただきました。
この先、ものを書くことで食べていく方法があるのではないか、という道筋を提示していただきました。
それまで、私には、将来を欲しがるということが、よくわかりませんでした。
真摯に夢を追うには、失うことに慣れすぎていました。
いろいろなことを諦めて、この先もただ来るものを受け容れて、そうして朽ちていくのだと思っていました。
だけれど、はじめて、ここにいる方のようになりたいと思いました。
すきなことに力を使って、それを自分の軸にして生きていくのは、とてもすてきなことに思えました。
実のところ、そこの皆さんの意識や能力の水準は私よりはっきり高く、私の身の丈には全くあっていなかったのですが。
頑張ればなんとかなるはずと呟きながら、背伸びばかりをしていました。
私はそこが好きでしたので、離れたくなくて、いろいろなことを見ないようにしていました。
無理をするものではありません。
そのうち、それまでできていたことさえもできなくなってきました。
気持ちの焦りがいつもの諦めに変質して、周囲の方が必死にフォローして下さったら、今度はそれに甘え出すようにすらなってしまって。
私は、ずいぶん、駄目でした。
9月には、そこを離れざるをえなくなりました。
たいそう悲しく、ずいぶん落ち込んで過ごしました。
何をする気にもなれず、とりあえず眠って、眠って、すこしばかりの食べ物を摂って、また眠って、そうして時間をやりすごしていきました。
好きな場所にいられないのなら、もうどこにもいたくありませんでした。
夢うつつの日々の中、移動することが重要だと教えて下さった方がいたのを思い出しました。
遠くに、できるだけ遠くに。
10月に、グアムに行きました。
きれいな海に囲まれて、おなかが空けば海に入って魚を捕ればよい、喉が渇けばそのあたりの木からヤシの実を取ればよい、そんな島でした。
過去には侵略され、戦争に巻き込まれ、今なお軍が駐留し、定期的に台風の被害にも遭っている、なにかと大変な背景のある島でもあるのですが、そういった苦労をさっぱり感じさせることなく、島の方はみなさん親切でした。
きれいな海で泳いで、泳ぎ疲れたら砂浜で貝を拾い、話しかけて下さる方から甘いものやお酒をいただいて、そのようにしてしばらく過ごしました。
山下清という方の旅は、こんな風だったのかもしれません。
惜しむらくは、私にはお返しする絵が描けませんでした。
島での日々はとても楽しく、笑ってばかりいた気がします。
英語があまり堪能でない私には、優しくしてくださる方々を前に、微笑むことしかできませんでした。
ただにこにことして、そうして周りの方にかわいがっていただきました。
帰りに、飛行機からの景色は、地球の形がわかって面白いものだと思いました。
日本に帰ってきて、大阪大学で開催中だった、維新派の展示を見ました。
「呼吸機械」で一緒だった大きなひとと再会し、会場で流れる「呼吸機械」のDVDを観ました。
音楽を聴くと自然に身体が動きそうになり、空気の感触まで鮮やかに蘇る記憶に、ぞくりとしました。
あのとき、私は確かにここに立っていました。
プロに並べるとはとてもいえない、つたない動きでしたが。
それでも、この方たちと同じ舞台を踏みました。
気付いたら、呼吸機械の公演から1年が経っていました。
あの公演で、「表現すること」の裾に触って。
前のお仕事の場で、それに一度は身を浸して。
そうしてそこから、離れてしまいました。
維新派の方たちが立つ舞台。
前の職場の方々が、ぎりぎりで身を置いていた場所。
それらはもう、ずいぶん遠くのように感じられました。
私はこれからここでずっと、彼らのいるそこを眩しげに眺めているのだろうと思いました。
それはよいことでも悪いことでもないように思いました。
ただ、さみしいだけです。
もう、戻れないけれど。
きっと、戻らないけれど。
それでもいっときは、つくる側にいました。
11月に、山梨に行きました。
5年前に亡くなられた作家さんの回顧展を見に行き、その方が作られたアトリエを訪れました。
そこで、遺された方とおはなしする機会を得ました。
その作家さんはほんとうに素敵な方だったのだ、と、話して下さいました。
その方が自分の全部だったから、それをなくしてしまって、一時は精神の安定もずいぶん欠いて。
それでも周りの方に支えられ、作品も少しずつ整理して、ようやくこうして回顧展も開けるようになって。
ひとりのひとが、大きな喪失から回復していくまでのおはなしは、自分のことのように感じられました。
ああ、あれは確かに、恋でした。
相手は、ひとですらなかったけれど。
話の流れで、きれいなものだけを見て生きていこうとするけれど、それは難しいことだというお話が出ました。
アトリエの中のひかりがとてもきれいで、出していただいたお茶もお菓子もとてもおいしくて。
うなずきながら、目の前にあふれているきれいなものたちに目を細めました。
気持ちが揺れると、すぐに見えなくなってしまうものたちのことを、忘れたくないと思いました。
新暦11月、旧暦で9月の中途半端な時期には、出雲大社に行きました。
時期をやや誤ったうっかりものの神様に交じって歩き、改修中の本殿を眺め、拝殿で仮住まいの神様に手を合わせました。
松江では小泉八雲の記念館で、異国のひとの慣れぬ生活に思いを馳せました。
山口では中原中也の記念館、以前より気になっていた情報センターにも足を運んできました。
維新派の公演、「ろじ式」も観に行きました。
ひとがきちんと動くというだけで、こうもきれいなものかとあらためて思いました。
観劇後、大阪のまちでぎんなんを拾って帰りました。
ビニル袋にたくさんのぎんなんを詰めて抱えて歩いていたら、警備員の方に健闘を褒められました。
がんばりました。
12月に入って、岐阜に行ってきました。
白川郷の景色と、高山の福来博士記念館を見て、下呂温泉に浸かってきました。
福来博士記念館は、隣接の喫茶店の管理。
地元の熱心な方が設置し、近所の喫茶店のご主人が管理を依頼され、今は設置した方も喫茶店のご主人も亡くなられ、喫茶店の奥様が管理されているのだとか。
奥様は、地に足のついた生活を充分に楽しむ才能のある方に見えました。
超常現象はあまり身近なものでなく、福来友吉博士の記念館の管理人という立場に、すこし戸惑っておられるようにも見えました。
喫茶店のコーヒーは暖かく、おいしかったです。
そのほかにも、こまごまといろいろなところに行き、いろいろなものをみました。
世界はちゃんときれいで、たべものはおいしく、すきだと思えるひともいました。
もう、どこにも行かなくていいような気がします。
また、どこかに行くような気もします。
どこに行くにせよ、そこが楽しい場所であればよいと思います。
しばらく気落ちの度合いがひどく、最も具合の悪いときは、ひとりでいるとなにかと見ず知らずの方がたべものをくださるような状態でした。
世界には親切な方がたくさんおられます。