同じだけの情報に触れることによって多様性がなくなる可能性。
知識によって発想の幅が狭まること。
国際化によって伝統文化が失われてしまった国のこと。
観察者によって齎されてしまう変化。
同じだけの情報に触れることによって多様性がなくなる可能性。
知識によって発想の幅が狭まること。
国際化によって伝統文化が失われてしまった国のこと。
観察者によって齎されてしまう変化。
・時代が進みあらゆる歴史の記録が蓄積されていくにつれ、人類はよりよい、幸福を得やすいものになっていくべきだと思っていました
・人類全体をひとつの生物に見立てれば、経験を得るにつれより正確な判断ができるようになる、成長するはずだという発想です
・そうはならないのかもしれません
・なぜですか
・ひとひとりが全てを知ることは不可能です
・得られる情報が膨大になればそのぶん賢くなれるのではなく、その分忘れざるを得ないこと、諦めることが増えてしまいます
「カワイイ」と「キモイ」と思考停止の必要性について考える(いつも感想中)
現在は、異常なまでの情報過多時代と言って良く、その情報量は普通の人間には処理しきれなくなりつつあるのではないでしょうか。人間の性能は昔と大きく変わらないのに情報だけが押し寄せてくる状況です。(中略)そんな状況で全て情報に対してまともに対処しようとしたら人間でも確実にブルースクリーンになれます。精神を病んで入院です。・加えて、全てのひとが知識を望んでいるわけではありません
(コメント欄、へろへろさんのコメントより抜粋)
思考停止するのはかまわないと思います。
専門性を配分することで、社会は人間一人の能力を超えて発展してきたわけですから。
ただし、思考停止して自分から切り離した物事に関して、それが「誰か、あるいは社会全体にとっては必要なことである可能性がある」ってことを
無視すると問題が起こるのかな、と思います。
「自分にはあまり重要でない事を切り離して効率を上げる」のはOK。
でも、
「自分が切り離したものを誰かが処理している」という事は認識しておくべきでしょう。
田中偉一郎の「クラシック・カラオケ」とビートまりお(東方)の「最終鬼畜一部声」がカラオケ配信されたものは異なる経緯で似たようなことになっている、という事実はもっと話題になっていいと思うのですが、どういう層に向けて話題にすればよいのかわかりません。
絵画も映像も音楽も舞台も学問も書物も言葉も思想も信仰もすべて、それを生み出したひとが世界をどのように認識してどのように関わったかを示すものです。
信じられるものがなく、大事なものがなく、無条件に愛情を向けられるものがないから、こんなにも――に惹かれてしまうのです。
今更、他の誰かなど認めるわけにはいかなかった。閉じた世界は閉ざされたままで終えるべきだった。なにかひとつ大事なものを持ち、それを自分の軸に据えるありかたについて。
(引用元:『MAMA』紅玉いづき)
・主人公は成長せず問題は解決せず何らの教訓も齎さないおはなし、というのがあります
・だからつまらないとかよくないというわけではなく、ただそういう性質のおはなし
・演劇という媒体ではそれが特に多いような気がしています
・なぜなのでしょう
・舞台には独特の力があります
・物語を語らずとも、何かを表現すること、ひとを楽しませることができます
・コンテンポラリーダンスの舞台を観て、くだくだしくおはなしを語らず、身体表現だけがそこにあるということの強さを感じました
・幕が下りると思い出せなくなる、文章にもしがたい揺らぎのような体験
・食事など、身体的な快感の記憶に近いもの
・おいしいものを食べたことは思い出せても、その味の記憶を何かに再現することが難しい
・明確な脚本があるもの、言葉を含むものは、それゆえに強度が落ちる気もします
・わかりやすい起承転結や教訓がないほうが舞台として魅力的なものになるから、そういう演劇が増えるのでしょうか
・物語を語るなら小説、舞台の身体表現ではダンスのほうが、よりそれらに特化した表現ができる気がします
・ならば、演劇という媒体でこそできることとは何なのでしょう
・演劇におはなしは、物語は必要なのでしょうか
・舞台に言葉は必要なのでしょうか
・演劇の歴史をよく知りません
・どういう経緯を経て、現在の演劇があるのでしょうか
・演劇史という大きなくくりで、世界の演劇を俯瞰することは可能なのでしょうか
・それとも国、地域ごと、舞台ごとの発達を遂げているジャンルなのでしょうか
鑑賞していてつらくなる作品があります。
ジャンルは問いません。
それは一見して何の変哲もない風景の映像であったり、ゆがみのない静物デッサンであったりします。
出来が悪過ぎるとかグロテスクだとか悪趣味だとか、そういうものではありません。
にも関わらず、それに出会うとぐらぐらと目眩がして、吐き気さえこみあげてくるような、そういう作品があります。
どうしてそうなるのかわかりません。
それは作品として優れたものなのかどうかわかりません。
私はそういうものが好きなのか嫌いなのかもわかりません。
ただ、そういう作品は存在します。
平穏を愛するなら避けて通るよりありません。