表現者になった時点で人格など捨てろ。
10年前のことを思い返しますと、その頃読んだ小説については文章を精査すれば語彙の傾向などからその作者がこれまでに誰の本を読んできたかある程度類推が可能でしたし、作者が若ければ若いほどその書棚を推測するのは容易な作業でしたが、最近の作品やネットで読む文章からはどうもそういう履歴を読み込みにくいと感じます。これはつまり、
ロボットがブログを代わりに書いてくれる新技術(ITmedia News)
・どのような道具を使って書くかで文章の性質は変化します、という観点
※個人的な印象や典拠のあいまいな情報を含みます
・ワープロで書いた小説なんて小説とは認められない、というような言説がありました
・今、ペンで紙に文章を書くことができない自分がいます
・文字は書けますが文章となると少々怪しく、また書いてみてもそれはキーボードを使って書く文章とは違うものになります
・母国語ではない言語を使うときの違和感に近いかもしれません
・携帯サイト向けに書かれた小説が書籍化されたものは、本読みの間では酷評される傾向にあります
・ネット上の掲示板のやりとりを書籍化したものなども、書籍という媒体のみに親しんできた方には「読みにくい」と不評でした
・でも本来の媒体ではベストセラー
・媒体によって言語の効能が異なる気がします
・それが誰の手でどのようにしてつくられたかというのはどうでもいいことなのかもしれません、という観点
羅列型ニュースサイトなんて人間がわざわざ運営する程のものじゃない (偏読日記@はてな)
ニュースサイト(偽)
物語要素事典
物語自動生成(Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―)
今、審査中の「物語自動生成方法」の特許出願がすごい。(hikaliの部屋)
・新しい道具は新しいものを生み出すでしょう
・それはどのようなものになるのでしょう
・作品にとって、作者はほんとうに必要な存在なのでしょうか
・あるいは重要な
あらゆる方法を尽くしてよいものをつくろうと努めた結果独自性を捨てることを選ばざるを得ないという状況は起こりうるのではないでしょうか。
そのものの質を高めるのに貢献しない独自性に拘ることは功名心、自己満足でしかないのではないでしょうか。
自分のためになにかをつくるのか、誰かのためになにかをつくるのか、なにかのためになにかをつくるのか、そのために取れる最善の手段はどのようなものなのか。
必要なものはその場合に応じて異なっていて、必ずしも独自性が必須でない場合もあると思うのです。
最善を尽くした結果出来上がった切り貼りがよいものならば、それはそれで愛されるに値するものなのではないかと思うのです。
自分の技量を実際より上に見せようとして行う剽窃は責められてしかるべきですが、自分自身が評価されることを諦めて矜持を投げ打ってただただよいものをつくるためだけにそのためだけに行われた模倣や引用があれば、それは。
世界の誰も知ることのなかったまったく新しいなにかを提示するのは不可能に近いことですが、あなたがこれまで知ることのなかったものを提示するのは割合に容易いことです。
ただしそれは、私でなくともできることです。
1000の小説についておはなししました。
その断片。
・時代を経て残るに足る強度を持つ小説の数は一定であるというおはなしを提示しました。
時代を代表するものは確実に生き残る、そしてそれは時代を重ねていくごとに増えていくものであり、その数に上限はないであろうという返答をいただきました。
きっとどちらも間違いではありません。
・おはなしをわかりやすくするためにあらかじめ定義しておくべきであったことがら。
なにを以って「生き残る」とするかの前提が曖昧です。
誰かが読める状態にあれば、名前が残っていれば、それはまだ生きていると見做すべきでしょうか。
あるいはそれを読んで心動かされるひとがいる小説のみを生きたものと定義すべきでしょうか。
読むことができなくなったときと読むひとがいなくなったとき、言葉にとってはどちらがより深い死なのでしょうか。
・それを認識するものがなければ世界は存在しないという観点と、観察者の有無を問わず世界は厳然として存在するのだという観点は両立するもので、そのことと絡めてなにかとても単純なおはなしに収斂させることが可能な案件のような気がします。
心の中の「あとで考える箱」に入れておきます。
・クレタ人のパラドクスについて考えましょう
・「これは嘘です、というのは嘘です」という言及を重ねることの意義を考えましょう
・よい嘘のありかたについて考えましょう
・真実のみを語り続けることの利点について考えましょう
・嘘だと気付いてもらえない嘘の存在価値について考えましょう
・世界の全てを理解することなど不可能な身において真実と嘘をはっきり見分けることなど可能なのかどうかを考えましょう
・何が嘘で何が本当でも致命的な損傷を負うことのないしたたかさを身に付けましょう
・だからといって自己の裡に全く揺らぐことのない世界を構築するのはやめましょう
(それはとてもつまらない場所です)
・要旨
こころを揺さぶられるものというのはそのひとが摂取した情報のなかから一定の比率で見出せるもので、摂取した情報の種類がどのようなものでもそこに含有される(またはそこからそのひとが見出すことのできる)感動の比率は変わらないのではないでしょうか
・あるいは
ひとつの精神が存在するあいだに得ることのできる感動の量はみな同じだけで、摂取している情報の量や質がどのようなものであれ、それぞれの精神は同様に揺さぶられるのではないでしょうか
・契機
ここで紹介されていたこの記事。タイトルが見当たりませんが、「ひとはなぜエロゲをするのか」というお題で書かれた文章です。
・気になった部分の引用
ただ単に総合的によくできた作品を遊びたいなら、『ドラクエ』とか『ゼルダ』とか『シレン』の新作を遊んでいればいいわけです。そうすれば、かなり高い確率で「当たり」を引き当てることができる。・読解
(中略)
いつのまにかあまりゲームを楽しいと思わなくなってきたんですね。ゲーム機がいくら進化しても、ゲーム自体は思ったほど進歩しなかったから。
いや、もちろんどんどんすごくなって行っているんだけれど、そこに革命的な何かはなかった。ただより画像が綺麗になり、より容量が膨大になっていっただけでした。
あなたが起こしたどのように僅かなことも、すべてあなたの世界を変え得ます。
そして、あなたがどのようなことをしても、私の世界はなにひとつ変わりません。