桜を携帯電話のカメラで撮るセーラー服の少女をすこし離れた場所から撮っている中年男性を見ました。
早川書房の『世界SF全集 12 ハインライン』を読みました。
福島正実訳、「人形つかい」と「夏への扉」の2作品を収録。
「人形つかい」は1958年に書かれた作品で、物語は1997年7月12日に主人公が目を覚ますところからはじまります。
今となっては過ぎた時間で、書かれたときには遠い未来であった時間です。
ここにある「未来の世界」を見るのは、刺激的なことでした。この世界には体内に受話器を埋め込む形の携帯電話が存在していたり、人類が宇宙に進出しているのは当たり前のことであったり、まだソ連が存在していてカメラの中にはフィルムと真空管が入っていたりするのです。
1958年に予測されていた未来のかたちです。
過去のひとが、私にとって既に過ぎてしまった未来を見ているという構図を興味深く感じます。
この物語の主題はそこではないのですが、今の時代に生きるものに許されたひとつの読み方です。
そうして、今の時代、2008年がここに書かれているよりも素晴らしい時代ではないなんてことは絶対に言うまいと思います。
この世の真理がどうあろうと、ぼくは現在をこよなく愛しているし、ぼくの夏への扉はもう見つかった。もしぼくの息子の時代になって、タイムマシンが完成したら、あるいは息子が行きたがるかもしれない。その場合には、いけないとは言わないが、決して過去には行くなといおう。過去は非常の場合だけだ。そして未来は、いずれにしろ過去に勝る。誰がなんといおうと、世界は日に日によくなりまさりつつあるのだ。1958年にそこにいたひとがどのような目で1997年を見ていたのか、今の私たちはどのような未来を予測するのか、考える価値はあると思います。
(「夏への扉」)
医療関係のお仕事は大変でしょうね、というお話をしました。
「『とにかく痛いのでなんとかしてください』みたいな感じでお医者さんに頼りきってしまう患者さんもおられるでしょうね」
「ああ、自分がそういう患者だから出てくる発想だね」
「なんだと」
失礼なことを言われた、と不服に思いました。
少し経って、いやこれはそうやって聞き流すべき言葉ではないと思い直しました。
とても不本意ながら、この指摘には一定の説得力があります。
(私が病院にかかるときの態度については異論がありますが、それはさておき)
私はどこかで自分の抱えている問題の原因や、その解決策を外部に見出そうとしています。
依拠するに足る絶対的なものが訪れるのを待ち、自力での解決を怠ることがあります。
それは正しいことではないと、待っていても何も起きはしないのだと、理解しているのにも関わらず、なお。
これはただの逃避であり、怠惰です。
私はそういう自分のありかたを肯定できません。
的を射ているから、悔しく思うのです。
そうして、こういう指摘をくれる相手がいたことに驚いています。
自分を見透かしてくれる目がこの世にあるというのは想像の埒外のことでした。
そういうものがあると思えるのは、心強いものです。
私はきっとこれからも色々間違えますが、それをどこかで正せる可能性があります。
過度に依りかかることはできませんが、足を踏み出す際の躊躇をすこしだけ減らす力になります。
なのでそういう指摘を得られた幸運を無条件に喜びたいのですが、あまり喜びすぎると指摘の本分である「外部に自己の問題の解決を委託しない」という課題の解決から離れて本末転倒なことになりそうなのが悩ましいところです。
信じられるものがなく、大事なものがなく、無条件に愛情を向けられるものがないから、こんなにも――に惹かれてしまうのです。
今更、他の誰かなど認めるわけにはいかなかった。閉じた世界は閉ざされたままで終えるべきだった。なにかひとつ大事なものを持ち、それを自分の軸に据えるありかたについて。
(引用元:『MAMA』紅玉いづき)
いろいろな方のおはなしを聞いて回ろうと、職場のお昼休みには他部課も含めてなるたけあちこちの集まりに混じってみるようにしています。
もとより特定の集団に帰属しにくい性質なだけで、さして社交的に振舞っているわけではありません。
とはいえ、黙々と自分とは異なる方々のおはなしに耳を傾けるのも面白いものです。
今日は、過去にここにおられた職員さんのお話を聞きました。
「あのひとは凄かったねえ」
そんな偉大な職員さんがおられたのですか。
「休み時間には上半身裸になり、人気のないところで鍛錬に励んでいたねえ」
それはまた頑張り屋さんな。
「気功に熱心な方だったね」
なるほど、太極拳のようなものでしょうか。
「私、肩に手を当てて肩こりを治されたことがあるよ」
外勁!?
「それで、治ったの?」
「うーん、触られたところが暖かいかなー、って感じはあった」
「体温だね」
「体温だね」
ここは意外と自由度が高い職場なのかもしれないと思いました。
自分が周囲からどのように見られているのか把握していません。
とはいえ、多くの場合然程周囲に強烈な印象を与えてはいない、地味で凡庸な存在である自信があります。
とりわけ職場においては、無害を身上として振舞っているつもりです。
で。
職場にて、猫の話題になりました。
「うちの猫、そろそろ去勢手術をしなければいけない時期かなあって」
「男の子だったよね。……そういえば、うちのも何年か前に去勢手術をしたけれど、抜糸をしなかった覚えがあるわ」
「うちのもそう、何匹も飼っているけれど猫の去勢で抜糸をするって聞いたことない」
「切らずに処置するのかな?」
「え、でもだったらどうやって処置しているんだろう?薬?それとも針とかでどうにかするの?」
「あれってどういう手術なんですか?」
ぼうっと聞いていたら、唐突に問いかけられました。
24よりすこし少ない数の瞳が私を興味津々のまなざしで。
なぜその質問を私になさるのでしょうか。
私なら知っているだろう、という期待が見えるのですが、それはいったいどういう根拠からの期待なのでしょうか。
去勢手術に詳しそうに見えたのでしょうか。
「去勢手術に詳しそうな印象のひと」というのはどういう印象のひとなのでしょうか。
自分が周囲からどのように見られているのか、すこし心配になりました。
ちなみに雄猫の去勢手術は、多くが睾丸を切開して精巣を摘出する方法で行われます。
この方法の場合は縫合をしないのが一般的で、したがって抜糸の必要もありません。
ご期待に添えたのでしょうか。
これは応えてよいご期待だったのでしょうか。