4月12日観覧の「ダウンワードスパイラル」感想に補足を。
あらためて、どのような方々が作った舞台だったのかをサイトの文章で読みました。
大橋可也&ダンサーズについて
その作品の出演者は一見全く無関係な存在であり続けているようであり、ディスコミュニケーションを提示しているように見える。ところが、多くのコンテンポラリーダンス作品のようにコミュニケーションの可能性を疑うことなく安易に関係性を持とうとする姿勢とは対照的に、コミュニケーションの不可能性に立脚した上で、新たなコミュニケーション=振り付けが生れる瞬間を描き出そうとしているのである。観覧中、「登場人物が関わり合わない」ことがひどく居心地悪いと感じました。
また、彼らの作品は現代の社会問題、例えば、精神的あるいは性的な虐待など、に影響を受けており、それらの問題に対する見方を変革しようとする試みでもある。
それは作者の意図によるもので、私はそこに設定されたものをそのまま観ただけに過ぎなかったようです。
コミュニケーションの不可能性。
問題に対する見方の変革。
言葉でもよかったのではないでしょうか。
上に引用した文章は、舞台を観て私が得たもののほとんどを書ききってしまっています。
これにいくつかのキーワードを足せば、それを読むだけであの舞台を観ずとも同様の感想を引き出すことの可能な文章ができてしまう気がします。
先回の感想は、とても書きやすいものでした。
通常、ダンスの舞台を観たときは感想を書くときにもっと悩みます。
書こうとするたびに、文章にできないもの、言葉にすると失われてしまうもの、そのときその場所にしかない、ダンスでしか表現できないものの存在を噛みしめ、言葉で表現できるものの限界を思い知るのです。
だけれど、今回の舞台はそうではありませんでした。
舞台でなければならない理由はあったのでしょうか。
きっとこの舞台を作ったのは、自らの意図を適正に伝える文章が書けるひとです。
私があの場所で見たものは、その言葉の下にあるものです。
全て言葉で制御可能なものたちです。
それを言葉以外の方法で表現し抜いたことには感心します。
ひとの動きと照明効果、音楽だけでなにかを伝えるというのは簡単なことではないでしょう。
観客に意図を伝えるちからのある舞台でした。
伝達だけでよかったのでしょうか。
舞台には、踊りには、伝える以上に響かせる、考えさせる暇もなく揺すぶる、言葉では不可能な、暴力的といってもいいような表現が可能です。
その幅を使い切らずに、つつましく閉じてしまってよかったのでしょうか。
言葉では表現できないものの存在を示し、私を絶望させなくてよかったのでしょうか。