毎年、冬になるとよく鍵盤に向かっている気がします。
自分のさびしさを観察しながらこの感情について考えていたら、なんだかさびしくなくなってしまいました。なんというか、ただ現象が存在するのがわかってしまって、そこに情動の働く余地が少なくなってしまったというか。単純にさびしがり飽きたというか。
だけれど、さびしがることは、人間関係の維持や構築のために必要だと思うのです。
私が誰とも一緒にいられないのは、さびしさの運営が下手だからなのでしょうか。適切にさびしがることは、 正しい愛情を生み出すのでしょうか。
ひとりでいるさびしさと、誰かがそばにいるさびしさは、どちらがより深いというものでもなく、ただ質が異なるもののような気がします。
さびしくて仕方ないのに、ひとと話すとぐったりするのです。
にもかかわらず、あなたに会いたくて仕方ないのです。
昔から、一部のマニアックな方に盤石なる支持を受けがちなのが私だったのですが、つい最近、「パンチパーマでカラフルな服をお召しになっていてご趣味はパチンコで性格は陽気かつ好戦的」というような、いわゆる大人の不良的な方にもなんだか好評という事実が判明しましたのですが、いったいこの事実をいかなるマーケティングに活かしたものなのやらさっぱり。
道路脇に、雪の塊が落ちているのを見ました。
宇宙からクリスマスカードをいただきました。地球から36,000Km離れたところを飛行している、人工衛星「きずな」を経由して送信されたメールだそうです。おそらく、私がこれまで受け取ったメールの中で、一番遠いところを通ってきたものだと思います。
ひとの心は星と星ほど遠いといいますが、星と星ほど離れた場所からも、言葉を送ることはできるのです。
かつていろいろありまして、宗教的な儀式には、いささか屈託のある思いをもっていたはずなのです。ひとづきあいが苦手ですから、 他者とイベントをお祝いした経験もほとんどないのです。今日も粛々と、いつも通りに過ごすつもりだったのです。
なのに今年も気付けばカメラの中にはライトアップされたスポットの写真がしっかり収まり、おいしいものを食べておなかはほどよく満ちており、今お膝の上でぽかぽかしている電気あんかだって、昨日のうちから「クリスマスだし、いいかな」と買ってしまった自分用のプレゼントであり、もうじき今日が終わってしまうのが残念で、でも今日が終わらないとクリスマスが来ませんので非常に悩ましいところで、こうして自省してみるとどう考えてもはしゃぎ気味に過ごしてしまった今日を否定できるはずもなく。
なんやかやで、私はクリスマスが好きすぎます。
今夜ばかりは、世界中の「ひとりで過ごしているひと」が自分の仲間のように思えて、なんとなく心強い気持ちです。
楽しげなほうに流れる性質です。