挫折してもそこで自動的に人生が終わるわけではないというのは些か残酷なことです。
客観的に見て面白い状態ならまだよかったのですが見苦しいばかりで目も当てられません。
もう――たいという考えに取り憑かれてそろそろ丸3日が経過します。いいかげんに思考を切り替えて、もっと前向きに、前向きに、何を考えればよいのでしたっけ。
無闇に落ち込んで、誰も読まないような暗い文章を書いて、そうしてぐずぐずとしているのがもう嫌でした。それなのに。
昨日と今日の区別がつかなくなりました。眠っている時間のほうが長く、生活の主軸は夢のほうにあるような心持ちです。また、どこにもいけなくなります。これではいけないので、ともかく何かして、明日は今日とは違うものにしなければいけないのですが、それにしても頭がぼんやりします。数日前までは、確かに、今日とは違うところにいました。
持っているものは愛情よりないのに、ほかにはなにももっていないのに、それを躊躇してしまうのは、きっと、
たったひとつのできることが、たったひとつのやりたいことなら、それはとても幸せなことですし、それを絶対に手放すべきではありません。
書く以外に、世界と繋がる方法がありません。
「百合子。面白いか?楽しいか?」ビールを飲みながら主人が訊く。「面白くも嬉しくもまだない。だんだん嬉しくなると思う」と答える。
「誰かのものになんてなれないのよ」「そうなりたいなら、自分でなるよりないのよ」(『思いわずらうことなく愉しく生きよ』(江國香織))
楽しげなほうに流れる性質です。