書籍版の『かもめ食堂』を読みました。
映画のほうが入りやすい、という印象を受けました。
書籍では登場人物に理由があって、それなりの経過を経て、かもめ食堂に辿り着きます。
映画では、気づいたらそこにいたのだという風情でかもめ食堂にひとがいます。
映画と書籍が補完しあう関係になっているという意味では、この差異は正しいものだと思います。媒体によって適した描き方はそれぞれ異なります。
私の感覚に沿うのは、映画の描き方のほうでした。
いつだって、気づいたらそこにいるのです。
そこに至るまでの過程も、なにがしかの意思も、なかったわけではありません。
それでもそこに辿り着いたときに、それまでの過程はさして自分を支えてくれるものではないのです。
いろいろなところで、自分がここにいるということに呆然とした経験を思い出します。
夢中になっているうちに、必死になっているうちに、気づいたらいつのまにかそこにいたのです。
誰に命じられたわけでもなく、自分の意思かどうかもよくわからず。
ああ、私はここにいる。
どうしよう。