桜庭一樹『荒野の恋』に、ハングリー・アートに関する記述がありました。
どんな文章であったか、正しくは覚えていません。
この世の大事なものを犠牲にしなければ作れないものがあって、小説もそのひとつであるというような、そういう書かれ方であったと思います。
ものをつくるのを、やめようと思っていました。
つくるのは楽しいことではありませんでした。
ぎりぎりの場所に立って、侵食して、侵食されて、世界を削りだすために自分の身を削って。
そんな場所に立ち続けたくはありませんでした。
逃れるように、ものをつくらなくてもよい場所に来ました。
それなのにいつでも、気づいたら文章という形でものを書いて、つくっていました。
創作と呼ぶにもおこがましいような拙いもので、誰の役に立つのかもわからない代物で。
書くことが好きなのかどうかわかりません。
楽しいとも思いません。
それでもこうせずにはいられませんでした、考える前に鍵盤を打っていました。
書き続けるべきだと仰ってくださった方がいました。
かなしいことがありました。
胸が痛くて苦しくて泣き出しそうで、ぐずぐずに崩れかけている自分の精神の中に、ぽつりと冷えて開かれた箇所がありました。
混乱の中でなお、起こることの全てを見据えて覚えておこうとしていました。
どのように書けばこれは面白く消費できるものになりうるのかと考えていました。
なんて、おぞましい。
私はこれからもっと酷い目に遭うのでしょう。
すこし、もしかしたらたくさん、泣いたりもするのでしょう。
それでも自分を傷つけるものに、ひとに、関わり続けようとするのでしょう。
そうしてきっと、その傷のことを書くのでしょう。
傷つかずとも書けるものはあるはずです、書かずとも生きていけるはずです。
だけれどもそうやってただ存在しつづけることに価値があるのでしょうか。
なにもつくらないで、傷つかないで、飢えないで、ただ幸せを享受してにこにこと。
私はもっと傷つかねばなりません。
誰にそれを望まれたわけでもないのですが。
きっと、そうしなくても生きてはいけるのですが。
もっと楽な場所を選ぶこともできたはずなのに、気づいたらまたここに立っていたのです。