作家になる才能なんてものはなく、単に、作家以外の何かになれる才能のなさが、人を作家にするのだ―――そうだ。基本的に、なにもできない人間です。
その場合の作家とは、広くクリエイター全般のことを指すようだった。
他に何もできないから―――もの作りにいそしむ。
らしい。
格好良く言えば、世界に自分向きのものがないから、それを自分で作り出す、となるのだろうけれど、しかしその言い方はちょっと格好つけ過ぎだろう。自分探しにくじけただけだ。
(西尾維新『難民探偵』)
スポーツクラブ通いに使っている鞄を整理しながら、ここにはお水も入っているしすこしの食べ物もある、水着があるから泳ぐこともできるし、寝床にできるマットもある、そうして自分には以前よりも体力がついていて、自転車で遠くまで走ることがさほど苦ではない、つまり自分は今この瞬間にここから割合どこにでも行かれる支度が整っているのだなあということに気付き、感慨深く思いました。
かつての、どこにも行けない気分でいた自分に、教えてみたい気がします。
真面目な女の子だったひとにはありがちなことですが、長いこと、外見を気にするのは不真面目なことだと思っていました。
学校でも、メディアでも、学生がお化粧をすること、アクセサリーをつけること、ダイエットを試みること、全て「悪いこと」として語られていました。
ですので素直に校則を遵守し、膝丈のスカートをきっちりと着た、野暮ったい学生でいました。
特にそうしない理由はありませんでしたし、規則に従うのは楽しいことでしたし、大人に好まれない子供よりは、好まれる子供でありたいと思っていました。
もとより、自分の外見はひとに好まれるものではないとも思っていました。
まして恋愛なんて、とんでもない、遠ざけるべきことでした。
ひとに好かれようとするのは、あさましいことのように思っていました。
好いてくださる方があっても、どうしていいのかわかりませんでした。
愛されたい、という渇望はたしかにあったのですが。
最近になって、外見を褒めていただくことも出てきて、伴侶をみつけるよう薦めていただくこともあって。
きれいになってみようと、身体を磨いてみるようになりました。
十分ではありませんが、ひとと接することを忌避しないよう、心がけるようになりました。
それはこれまでの意識とは、まったく逆の方向で。
かつて向かっていた、自分の中に閉じた世界を作ってみよう、という試みは、それなりに楽しいものでした。
今志向している、ひとの目を意識して、他者に対して開いた部分を作ってみよう、ということもまた、やってみるとそれなりに楽しく感じられています。
まったく逆の方向に動いてみるのは、実に贅沢な楽しみです。
ヨガに、チャイルド・ポーズという姿勢があります。
正座して、手を前方につき、上半身、額を床に預けて、肩と首の力を抜くという姿勢です。
土下座の姿勢で、手をずっと前方に送って、よりへりくだらせた感じというとわかりやすい気がします。
で、ヨガではこの姿勢、「最大限にリラックスしたポーズ」のひとつとされています。
それが、土下座という「最大限の謝罪のポーズ」と酷似しているのは、いささか興味深いことです。
気持ちはすごく謝っているのに、身体としては最もくつろいだ姿勢を取っているという状況は、なんだか哲学的な気がします。
きれいになりたいなあと思いつつつい変な格好に落ち着いてしまいがちな状況を打破するには、化粧より仮装が好きな自分の好みを自覚しつつ制御することがだいじなのかなあと思いました。
私はひとが髪型や服装を変えると、そのひとが誰だかわからなくなってしまいがちなのですが、友人はひとが髪型や服装を変えても、その変化がわからないままになりがちらしいのです。
ひとはそれぞれ、何をもってそのひとをそのひとと認識しているのでしょう。
祖父からはいろいろなおはなしを聞かせてもらったものですが、祖父の話すことは7割方嘘で、また聞いたことの半分は忘れてしまうのが私ですので、私がどれほど祖父のことを正しく知っているかは不可測なのです。