作家になる才能なんてものはなく、単に、作家以外の何かになれる才能のなさが、人を作家にするのだ―――そうだ。基本的に、なにもできない人間です。
その場合の作家とは、広くクリエイター全般のことを指すようだった。
他に何もできないから―――もの作りにいそしむ。
らしい。
格好良く言えば、世界に自分向きのものがないから、それを自分で作り出す、となるのだろうけれど、しかしその言い方はちょっと格好つけ過ぎだろう。自分探しにくじけただけだ。
(西尾維新『難民探偵』)
徒に自分を卑下したいわけではありませんが、他者との関係を構築するのが不得手だったり、嗜好や特性が収益を上げられなさそうなものにばかり偏っていたり、まあ、全般的に残念な感じなのです。
あまり長くいろいろなことを覚えていられないため、それなりに幸せな気持ちで日々を過ごすことはできるのですが、それはよいことか悪いことか、見解の分かれるところだと思います。
欠落したところははっきりあって、突出したところは見あたりません。
だからでしょうか、その足りないところを埋めるように、ものをつくること、とりわけ書くことに憑かれるようになりました。
書くことを、 楽しいと思った記憶がありません。
やむにやまれず、これを書かなければおかしくなってしまう、というような切実な気持ちで、鍵盤を打ってきました。
最近、そういった飢餓感が薄くなっているような気がします。
もとより、環境には恵まれています。
さしあたり食べるに困ってはおらず、優しくしてくださる方もあり、かつては大きく損傷していた身体でさえ、傷口は塞がり昨今の運動で鍛えられ、いまや随分と健康で。
世界は、どこまでも私に甘く、優しいと感じています。
多くを望まず先を憂えず、現状を甘受していれば、十分に幸福を噛みしめることができてしまいます。
飢えていません。
何も作らなくとも、満たされてしまっています。
このような自分には価値がないなあ、 とも思います。
ただただ、無為で無能で幸福です。
もし、この先、そうでなくなるときがきたら。
健康を害するとか、 蓄えが尽きるとか、そばにいてくださる方がいなくなるとか、とにかく深刻ななにがしかの喪失を体験して、その欠落を埋めがたく感じることがあったら。
きっと私はまた必死に、何かを書くのだと思います。
やむにやまれない気持ちで、生き延びるために死なないために。
そうなった自分が、今の自分より価値があるとも思わないのですが。
そうなりたいとも、思わないのですが。
かつて誰かに、「あなたは幸せにならないほうがいい」と言われたことを思い出します。
とてもとても真摯に響く言葉でした。
私はそのひとに愛されていませんでしたが、私の書くものは、確実にそのひとに愛されていました。
それがうれしかったのを、覚えています。
あのひとは、まだ、 私が幸せでなくなるのを、待ってくださっているでしょうか。