なにかと、欠けているところがあります。
それは元々持っていないものであったり、かつて負った傷のために欠けたものであったりします。
自分がなにをなくしたのか知らないため、どの部分がそうなのか正確にはわかりません。
普段の生活では、自分の古傷の存在を忘れています。
思い出す必要がありません。
損傷の存在を意識することは害悪でしたので、つとめて意識の外に追いやりました。
傷を負ったばかりの頃。
私は、もっと大幅に欠けていました。
動けませんでした、目が見えませんでした、心さえきちんと機能していませんでした。
死んでいないだけで幸福なことでした。
なにもできないのはあたりまえのことでした。
それを周りが許してくれていました。
柔らかなベッドと十分な看護と必要な食事を与えていただけました。
なにもせずに生きていてもよいと、死ぬまで生きてさえいればよいと、そう言ってくれていました。
あまりに簡単に生きていけました、それはきっととても幸福なことでした。
でも、そうしたくはありませんでした。
回復訓練に励みました。
足りない部分を補えるよう、学習と記憶に励みました。
以前に比べて明確に欠けている能力もありましたが、周囲から見て不自然でないよう、誤魔化す方法を身につけました。
欠けている自分を許しませんでした、許せませんでした。
許して、甘えてしまうことに怯えていました。
そうすればずるずると、何もできない場所で、何もできないまま、ぜんぶが終わってしまうから。
普通になりたかった。
傷のせいにして何かを諦めるのは嫌です。
自分には傷などないのだと、普通に振る舞えるのだと言い聞かせ、そのようにしてきました。
心が欠けているのを、知られたくありませんでした。
能力が足りないのを、周りに気付かれてはいけないと思っていました。
そうしないと、生きていけませんでした。
できることはがんばって、できないこともがんばって、どうしても駄目なことはごまかして。
とはいえ、そうしたところで、欠けているものは断固として欠けています。
やりたいことや、なりたいものに足りないところがぽろぽろあります。
だから私は、ほんとうは存在してはいけないのだと、ほんとうはここにいることを許されていないのだと、そういう強迫観念がずっとあります。
いつか、全部を見透かしている誰かに肩を叩かれて
「上手に取り繕ってきたけれど、あなた、本当は壊れているでしょう。ここにいてはいけないよ」
と、言われるような気がしています。
今。
頑張っても足りない、誤魔化しがきかない、そういうことが多くある環境にいます。
しばしば、自分が欠けていることを痛感します。
それでも、まだ、おいていただいています。
できない分を、他の方に助けていただいています。
「できないことがあっても、大丈夫。他のところで埋め合わせすればいいよ」
と言ってもらえるたびに、泣きそうになります。
私は、自分に、それを言うことができませんでした。
そう言っていただけるおかげで、これまでできなかったことができるようになりはじめています。
欠落を糊塗するのに使っていた力を、自分がやりたいこと、やれるようになりたいことに回して。
欠けているところがあります。
それでも、それを無理に取り繕わなくても、生きていけるのかもしれません。
誰かといっしょにいるというのは、そういうことなのかもしれません。