昔話を。
脳を壊して治療を受けていたことがありました。
生死の境で意識が混濁していた私は、父にこのように頼んだそうです。
「味の素をください、グルタミン酸ナトリウム」
それを聞いた父は、もう駄目かと思ったそうです。
その後周囲の方のご尽力で、どうにか一命は取り留めました。
頭は随分悪くなってしまいましたし、色々なことも忘れてしまいましたが。
しばらく失っていた視力も今ではすっかり回復し、生活に支障のない程度に健康です。
回復した後その話を聞かされて、ああ私も面白い譫言を言っていたのだなあとすこし笑って忘れていました。
今になって考えてみれば。
神経伝達物質としてのグルタミン酸は、記憶に不可欠な物質です。
いろいろなものを忘れていく最中にあった私は、混乱と幼い発想で
「とりあえずグルタミン酸を摂れば事態が改善するかも」
と考えたのかもしれません。
笑い話のようですが、当人としてはいたって本気で。
私はあのとき、自分が何を失っていくのかを認識していました。
それでも生き延びようとしました。
あの時点で将来に抱ける希望はなにひとつありませんでした。
自分はひどい状態で、失ったものは決して少なくなく、生き延びればこれからもっとひどい場所に立ち続けなければならなくなるのだと知っていました。
だけれど、それでも。
絶望はひとを殺しません。
私はまだ生きています。
あのときそれを選択したことを、忘れるべきではないのだと思います。