職場でオリヅルランを栽培しています。
ほぼ私ひとりで面倒をみて、水の加減や日の当たり方に気を配り、適切な状態に置いています。
その甲斐あってすくすく育ち、沢山の子株がぴょんぴょんと伸びた茎の先につくようになりました。
無闇に繁茂しても邪魔なばかりだから切ってしまいなさい、と同僚から言われたりもしたのですが、どんな小さい株も切り捨ててしまうのは忍びなく。
適宜邪魔にならない程度に本体から切り離し、水栽培で生育させていった結果、夥しい量の水栽培鉢が職場の一角を占めることになりました。
希望者を募り色々な方にお配りし、どうにか全ての株を捨てることも枯らすこともなく求められる場所に手配することができました。
私はこの植物が大好きです。
自宅にもいくつか持ち帰り、栽培しています。
オリヅルランは猫の食用になりますので、持って帰った株は猫のおやつにし、ひとしきり葉を齧ってぼろぼろの状態になったところで、庭に植え替えています。
植え替えた植物は葉が傷つき、見た目はかわいそうな状態ですが生きています。
しばらくすれば新しい葉を伸ばしてくれるでしょう。
この植物が大好きで、可愛くてなりません。
だけれどそれを猫に食べさせることにいささかの躊躇いもありません。
ただ、どんなに葉が傷ついても植物自体を捨ててしまうことがどうしてもできません。
ぼろぼろになった植物を庭に植え、それが少しずつ新しい葉を伸ばしていく様子を日々愛おしく見守っています。
好きな植物がそこに生きているということがとても嬉しくて。
なにかを好きになる、というのはどういうことなのだろうと考えます。
大好きな植物を丹精込めて育てること。
それを手ずから猫に食べさせること。
それらが矛盾なく同居するということ。
無残に齧られた葉を見ながら思案します。
私の愛情は正しい形をしているのでしょうか。
生きたひとを好きになったとき、生きたひとを育てる機会ができたとき、私はそのひとをどうするのでしょうか。
好きなものが生きている、ただそれだけで私は充分に満ち足りてしまえます。